公開講座

2011年度文学部公開講座

文学部公開講座 日本文学の本文(テキスト)

講座の趣旨

日本文学における「本文(テキスト)」とは何かという問題について、古代・中世・近世・近代を専門とする専任教員4人が、各時代と各ジャンルを包括した具 体的なメディアとその特性について、分かりやすく連続講義をします。すなわち、口承が書承という形式を獲得していく古代、写本として書かれた文字列が筆写 伝播されていく中世、そして印刷技術が広まり書物が出板されて文学が大衆化していく近世、さらに活字文化が花開く近代に到って発生する諸問題などについ て、文学史的視座から論じます。

主催
千葉大学文学部
企画
日本文化学科(日本言語文化論講座)
共催
千葉大学大学院人文社会科学研究科
後援
千葉市教育委員会
日時:
2011年11月6日(日)13~16時
会場:
人文社会科学研究科棟2F マルチメディア会議室

ポスターはこちら

日本文学の本文(テキスト)

兼岡理恵「今、ここにある「古代」 -「かたち」・「よみ」の変遷-」

今に生きる私たちは、千年以上前に書かれた本文(テキスト)を「よむ」ことが出来ます。 しかし千年前の『古事記』と、現在書店に並ぶ『古事記』とは、当然ながら全く別の「モノ」です。本文(テキスト)は、その形態・よみ方等、様々に変容しつつ現代に伝えられてきました。たとえば書物としての「かたち」-巻子本から冊子体、写本から版本、活字、電子テキスト-、本文の「よみ」-訓釈、注釈、口語訳-、そうした変遷を経て立ちあらわれてきたものを、私たちは「古代のテキスト」として享受しているのです。本講義では『古事記』を中心に取り上げ、本書が辿ってきた「かたち」・「よみ」の諸相を繙きつつ、古代の本文(テキスト)を「よむ」という営為を考えたいと思います。

柴佳世乃「説話とその語られた場 -本文の変容-」

中世は「説話の時代」と言われ、多くの説話集が編まれました。あはれなること、をかしきこと、たふときこと、おもしろきこと、をこなること、おそろしきこと、様々な説話が今に伝えられています。説話集に書き留められた一編の話-本文(テキスト)が、どのような場で読まれ、いかに活用されたかを具体的に取り上げ、中世説話をめぐる「現場」を覗いてみたいと思います。取り上げるのは、鴨長明の著した『発心集』の一話。堀河天皇を慕う男が、主上亡き後、追慕の念やまず、とうとう西海に船出するという話です。さて、この話はどのような場でどのように語られたでしょう。

高木 元「文学の大衆化 -出板文化史の視座から-」

近世は「出板の時代」といわれて、中世とは比較にならないほど大量の書物が市井に流通し始めます。最初は京都を主とした仏典や漢籍などの「漢字と片仮名だけ」の固い本に限られていた出板物ですが、次第に俳諧や仮名草子などの「平仮名絵入り」の大衆文学にその座を譲ります。その後、出板の中心は京阪から江戸の地に移り、洒落本や草双紙などの戯作が一世を風靡します。これらの大衆小説が「絵入本」として流布したことは日本文学の顕著な特徴の一つなのですが、製版本は「本文(テキスト)」と「絵画(イメージ)」との融合に相応しいメディアなのでした。近世で最も知的で高尚なジャンルであった江戸読本(よみほん)の代表作『南総里見八犬伝』も、実に凝った美しい装丁と挿絵とを備えています。これらの画と文とが不可分な美しい装丁の本は、それ自体を「本文(テキスト)」として捉えることが可能なのです。

大原祐治「書物のあとさき -検閲と本文の変容-」

近代文学を読むとき、一般に人は書物に収められたその「本文(テキスト)」を疑うことは少ないのではないでしょうか。図書館で借りて読もうが、文庫本を買って読もうが、あるいは国語の時間に教科書で読もうが、それらの「本文(テキスト)」は唯一にして絶対のものであると考えられがちです。しかし、作家が原稿用紙に書き付けた肉筆の文字が活字に組まれ、さらに版を重ねていく過程の中では、微細なものから大きなものまで、「本文(テキスト)」にはさまざまな変化が起こります。さらに、出版の自由が完全に保証されていなかった時代においては、検閲に伴う強制的な変容も生じます。このように複数化する近代文学の「本文(テキスト)」について考えることは、文学作品を専らその内容において読み鑑賞する場合には見えてこない様々な問題を考える端緒となります。今回の講義では、主に大岡昇平の『俘虜記』を素材として、近代文学と「本文(テキスト)」をめぐる諸問題について考えてみたいと思います。

聴講無料 来聴歓迎

申し込み方法

電話で、千葉大学文学部学務グループ Tel 043-290-2351まで。
 FAX 043-290-2356も可(氏名、性別、年齢、連絡先、職業等明記)

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